人文学におけるデジタルツール活用の手引き
菅原 裕輝|大阪大学 大学院人文学研究科
人文学の世界では、いまだにアナログな手法を好む研究者が多く存在します。紙の書籍や手書きのノート、カードを用いた伝統的な調査・思索方法に慣れ親しんだ人にとって、コンピュータやインターネットといったデジタル技術はどうにも自分には合わない、あるいは苦手だと感じられることが少なくありません。
実際、デジタル技術の活用は人文学分野では他の領域に比べてゆるやかな進展にとどまり、多くの研究者にとって十分に身近なものとはなっていないのが現状です。
本授業はこうした状況を踏まえ、デジタル技術を人文学研究にまだ取り入れたことのない方や、これから取り入れてみようかと考えている方に向けて、その第一歩となる入門的な情報を提供することを目的としています。
「スローペースで深く考える」と「大量の情報を素早く処理する」
一度に扱う対象(テキストや史料など)の数は決して多くなくとも、それらに長い時間をかけて向き合い、じっくりと考察する姿勢が重視されます。限られた素材を精読し、歴史的文脈や背景を踏まえて深く読み解く——このように「少ない対象に時間をかけて繰り返し考える」ことが、人文学における基本的なアプローチです。
大量の情報を高速に処理し、短時間で全体像を把握したりパターンを抽出したりすることにあります。コンピュータは数百万件にも及ぶ文献データから関連情報を瞬時に検索したり、膨大なテキストデータを統計的に分析して特徴を可視化したりすることが可能であり、人間では到底追いつけないスピードで情報を整理できます。
速さと深さを統合する新しい知のプロセス
この文脈で鍵となるコンセプトが「デジタル時代における発酵思考」です。発酵とは微生物の働きによって素材の風味や価値を時間とともに高めていくプロセスです。ここでは比喩的に、知識や思考を時間をかけてゆっくりと熟成させることを意味します。
情報過多で結果を急ぎがちな現代だからこそ、発酵になぞらえて「あえて待つ」ことに価値を見出す姿勢が重要です。歴史学者の藤原辰史氏も、発酵文化は「何かを決めつける前にじっくり考える」ことや、情報を時間をかけて知恵へと醸成することの大切さを教えてくれると指摘しています。
ネット上で瞬時に得た知識は消費されやすく寿命も短いかもしれません。しかし、本や論文を読んで得た情報を何日も頭の中で寝かせ、何度も噛みしめることで、それは私たちの中でより深い意味を持つ知恵へと変わっていくのです。
発酵に時間が必要なように、人文学の思考にも時間という熟成の過程が欠かせません。そしてデジタル時代における発酵思考とは、まさにその熟成の過程とデジタル技術の利活用を両立させるアプローチなのです。
デジタル技術で得た材料を、人文学の視点でゆっくり「発酵」させる
具体的には、デジタル技術で得られた大量のデータや分析結果をただ速やかに消費するのではなく、一度立ち止まって吟味し、自分の中で咀嚼してから活用することが重要になります。
デジタル技術を活用してデータや資料を効率的に収集・整理する
集めた情報を自分の言葉で整理し、関連付ける
すぐに表面的な解釈に飛びつかず、時間をかけて考えを熟成させる
人文学者ならではの視点でゆっくりと「発酵」させ、文脈や価値をじっくりと与える
熟成した思考をアウトプットとして形にする——論文、発表、作品として世に送り出す
本授業で提案したいのは、こうした一見相反する要素を両立させることで人文学の研究手法をアップデートできるという展望です。
デジタル技術は私たち研究者に、これまで手作業では膨大な時間を要したルーチン作業——資料の収集・整理、大量データの検索や集計など——を飛躍的に効率化する手段を提供してくれます。その結果、研究者はより多くの時間とエネルギーを、本来注力すべき「考えること」や「解釈を深めること」に振り向けることが可能になるでしょう。
デジタル技術を賢く利用すれば、「速さ」と「深さ」は互いに排他的なものではなく、双方の長所を活かして研究プロセスを革新できるのです。
全15章の学習内容
本授業全体を通じて、デジタル時代に適応した人文学研究のワークフローを考え直していただく機会を提供します。社会人基礎としてのタスク管理や情報整理から、文献探索・管理、デジタルノート術、さらにはテキストや画像データの分析、インタビューの文字起こし、コーパスの活用、生成 AI との付き合い方に至るまで、段階的にデジタルツールの具体的な活用法を紹介していきます。
基盤を整える(第1〜5章)
データと向き合う(第6〜10章)
発展と統合(第11〜15章)
これらのツールは単なる作業効率化の道具ではなく、先に述べた「発酵思考」を支えるためのパートナーです。
デジタル技術の力を借りて反復と熟考を重ねることで、人文学の研究プロセスに新たな深みと広がりをもたらすこと——それが本授業の狙いです。
デジタルは苦手だと感じている方にも、本授業が新しい一歩を踏み出す助けとなり、デジタル時代にふさわしい人文学研究の地平を切り拓く一助となれば幸いです。